トゥール・スレン虐殺博物館・・・

Keauhou, Big Island…Gecko.

 

ALOHA.

 

「プノンペンは引ったくりが多いので堂々とカメラを持って街中を闊歩出来ない。」

 

だから・・・写真を撮る度にカバンからカメラを取出して撮影する。

段々その行動が面倒になって写真を撮らなくなる。

(ハワイの様にカメラを片手に持ってウロウロ出来ない)

 

「あっ!ここ凄い、撮りたい!」と感じても、

周辺をキョロキョロしてからカバンのチャックを開けてカバンからカメラを・・・。

「もう!良いよ、カメラをカバンから出すのがメンドクサイ!」となる。

 

おっさんはカメラのピントや露出や絞り等の調整は全くやらない。(出来ない!)

プログラムとシャッターを連写に合わせてあるのでPLフィルターを調整するだけ。

よって、人より素早く撮影出来るの筈なのに・・・。

 

周りに目を配りながら観光しないと危険。

特にカメラやスマートフォンは引ったくりやスリの絶好のターゲットかもね?

多くの人が集まる場所でのスマートフォンを操作してるとヤバイだろうね。

 

 

 

 

「2日目に『トゥール・スレン虐殺博物館(Toul Sleng Museum”)』へ行った。」

 

1975年~1979年の間カンボジアの実権を握ったポル・ポトが200万人を虐殺した。

(ポル・ポトとはゲリラ名で、本名はサロト・サルと言う)

1975年ポル・ポト政権が樹立された時、国民は「新しい政権誕生だ!」と歓喜。

しかし・・・これが国民にとって地獄の始まりだった。

 

ポル・ポトは中国の毛沢東に強い影響を受け原始共産主義を掲げた。

カンボジア原始共産主義=階級や格差のない社会で質素で堅実な農村生活を行う。

 

この政権下の元で閉鎖や廃止や禁止された下記のモノ。

学校の閉鎖、病院の閉鎖、貨幣の廃止、戸籍の廃止、宗教・音楽・映画の禁止。

食糧増産を図るため都市住民から財産や身分を剥奪して一人残らず農村に強制退去。

 

ある日ポル・ポトは「理想の国をつくるためには教師や医者や技術者の力が必要だ。

海外に留学している学生もカンボジアへ帰って来て欲しい。」と呼び掛けた。

しかし・・・。

呼び掛け寄って集まった人々は政権に連れて行かれ生きて帰る事は無かった。

 

またポル・ポトは「国を指導する我々以外の知識層は自国には必要無い。」と考え

虐殺をエスカレートして行った。

眼鏡を掛けている、外国語を話せる、本を読んでいる、海外に行った事がある人々

これらの人々も知識階級と見なされ虐殺された。

そして、将来敵になるであろうとされた子供も虐殺された。

 

1978年にポル・ポト政権は中国から支援を受けベトナムを攻撃。

だがベトナムはソ連から支援を受けポル・ポト政権とベトナム軍は対立構造となる。

 

1979年1月にポル・ポト政権崩壊。

ポル・ポト政権はベトナム軍と戦える力が無くベトナム軍がプノンペンを占拠した。

 

ポル・ポト政権による強制労働・飢餓・大虐殺による死者は200万人以上。

当時のカンボジアの人口は700万人・・・約30%の国民が殺された!

またポル・ポト政権崩壊後の国民の85%が14歳以下だった様だ。

 

「現在のカンボジアには60歳以上の大人達が少ないって事だよな!」

 

 

以下の画像が・・・トゥール・スレン虐殺博物館。

「革命に学問は不必要」という理由で医者や弁護士等の知識人や罪の無い人々を

次々と捕まえ、当時は高校だった校舎を尋問・拷問する場所に転用された。

 

拷問及び尋問室。

独居房

独居房:1m×2m位の広さ。

 

「ポル・ポトは一体何がしたかったのか?どんな未来を描いていたのだろうか?」

「何故?彼らは死ななきゃいけなかったんだろう?」と、そればかりが頭の中に。

 

1975年~1979年って昭和50年~昭和54年は「つい最近の出来事ジャンよ!」

本や話では聞いていて知っていたが、現実に此処に来ると身体がゾクゾクした。

 

 

MAHALO.