日米開戦の経緯・・・

Wailua, Kauai Island…Nene.

 

ALOHA.

 

「ここ湘南は朝8時で既に30度超え!今日の最高気温は再び35度との予報との事。」

 

我家の出窓の昼間の気温は45度までになる。

出窓に置いてあるハイビスカスの土があっという間に乾いてしまう。

 

「そう言えばヤカンでお湯を沸かすとあっという間に沸騰する。非常に経済的だ!」

でも、ビールがあっという間に温くなるので何度もビールを冷蔵庫に。不経済だ!

 

 

 

 

話は大幅に変わるが今日興味深い記事を見つけた。

 

「日米開戦を巡る経緯(読売新聞)」

そのままリライトしてみた。

※若干おっさんが知っている事を付け加えた。()の部分。

 

・1941年7月28日

軍事物資調達のため南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐。

翌月、米国が石油の対日禁輸等の処置。

(当時日本は石油燃料とニッケル他金属の7割をアメリカからの輸入していた)

 

・1941年9月6日

御前会議、対米国戦準備を決定。

(御前会議=天皇の出席の元に重臣・大臣等が行う最高会議)

昭和天皇が平和を願う明治天皇の和歌を読み上げる。

 

・1941年10月18日

東条英機内閣誕生。

昭和天皇の意を受けて外交交渉による対米国戦回避の再検討開始。

 

・1941年11月27日

米国より「ハル・ノート “Hull Note”」が届く。

(米国コーデル・ハル国務長官の名前から「ハル・ノート」と呼ばれた)

(内容:中国、仏印からの徹兵。三国同盟(イタリア・ナチ)の廃棄等)

 

・1941年12月1日

御前会議、日米開戦を最終決定。

 

・1941年12月7日

昼頃に東条英機が昭和天皇と面会。

午後8時半から東条英機が湯沢三千男内務次官らに自身の胸中や昭和天皇との

面会について伝える。

午後11時20分、湯川三千男が東条英機の話をメモに記す。

(今回このメモが発見された)

 

・1941年12月8日

未明、日米開戦。真珠湾攻撃。

 

「こうして日米開戦となって行ったのか・・・。」

 

 

何故?

1941年10月18日に昭和天皇から直接に「対米英戦争はしないでくれ。」と

要請されたにも拘わらず東条英機は総理大臣・陸軍大臣としては開戦を決めたのか?

 

何故?

「日本は建国以来2600年、戦争に負けた事が無い。その精神があれば米英と言えど、

怖れるに足り無い。」と考えてしまったのか?

 

何故?

「戦争はやってみないと分からん。」等と安直な考えで開戦を決意したのか?

(何処の会社にもいるね!なーんも考えずに「取敢えずやってみないと!」言う奴)

 

 

処で「東条メモ」って知っている?敗戦後に東条英樹が残した飽きれたメモ。

・「政府・国民がこんなに簡単に手をあげてしまう様な意気地無しとは

夢にも思わなかった。」

・「たった二発の原爆で降伏してしまった。」

 

「簡単に開戦に突入するとは、5カ月の間に戦争回避のチャンスは幾らでもあった。」

トップが馬鹿だと国も会社も大変な事になる・・・安部も東条レベルかもね?

 

 

MAHALO.

 

 

 

 

 

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